サイゼリア(詩)
サイゼリアに行くためにぼくはわざわざ電車に乗る。都市という言葉の定義ははっきりと定義はされていない。それならばサイゼリアのあるところが都市だ。
サイゼリアで白ワインデキャンタ500mlを飲んでる時だけが生きてるって感じがする。季節のメニューが変わるたびに風の温度変化を感じる。パスタとドリアとピザとかいう炭水化物3連発を頼んでも許されるのはサイゼリアという空間だけだ。
高校生の頃のサイゼリアでの贅沢はミラノ風ドリアに温玉を載せることだった。大学生になり少しのお金を得た今、贅沢の仕方は変わった。イタリアンのコースさながら、スープ・サラダにはじまりデザートまでも注文できる。そして豪遊の先が2000円を超えないことに感動を覚える。
サイゼリアは都市に住むさまざまな人種が混ざり合う人種の坩堝だ。雑踏と適度な居心地の悪さ。ひとりでいる時はイヤホンを外すことができない。ドリンクバーの前ではしゃぐ中学生。早口でまくし立てるもっさりしたオタク。平日昼間からワインを飲む老人。周りを見渡すとそこは平和で幸福で、そしてどうしようもない空気が流れる。
それぞれの時間が流れる。
同じ場所で同じ時間を過ごしながらもひとりひとりに流れている時間はまったく違っている。感情を共有することは意味がないことなのかもしれない。分かり合っているつもりのものは全く異なるものなのかもしれない。同じものを見て聞いて食べて同じことを結論付けても、そこにはなにも生まれないのかもしれない。
だとしてもわれわれは日々を暮らしていかなければならない。虚空を感じ、本質ではないと理解しながらもその暖かみを捨てることはできないからだ。
まったく知らない都市に行ったとして、そこにサイゼリアがあったらやっぱりぼくはサイゼリアに行くだろう。真実だけが正解ではないことを理解しているからだ。