みんなの日記

みんなでつくるひとつの日記

やな話

id:koiiiiikeです

ぐちなんですけど、大人に「それは世間が許さないよ」って言われるのって腹が立ちますよね。それこそ人間失格のセリフじゃないですけど、世間じゃなくて貴方でしょう、みたいな気がしてなりません。たとえ世間に(貴方に)許してもらえなくても、ひとつでも理解してもらえる名前のあるもの(ひと)を見つけられたら、それはよかったということになるのではないでしょうか。そういったものがないからこそ人は世間だの社会だの曖昧な三人称を相手にものを考えなければならないのかもしれません。
現実の世界でもインターネットの世界でも、不特定多数の第三者からの承認欲求をこじらせるといいことがありません。承認欲求そのものを否定する気はさらさらありませんが(この日記もその延長です)自分がどこから認められたいのかをはっきりと認識していないと大衆の曖昧な尺度でしかものを考えられなくなるのかもしれないですね。
この現代社会を生きるうえで自分の頭でものを考える能力はさして要らないのでは、と考えます。それよりも他人の頭でものを考えることがそれこそ(冷凍)都市を生きるためには必要になってくるのではないでしょうか。
人にされて嫌なことは自分はしてはいけない、という言葉があります。これはある意味では正解で、ある意味では間違っていると考えます。例えば小学生のような自分の倫理観が十分に育っていない状態では他者にとって自分の振る舞いが相手のどの感情を刺激するのかがわからないことがあります。こういった場合、せめて自分が嫌なことはしなければ相手に悪意がないことを示すことが出来るよ、という教訓を見ることができます。しかし、ある程度の倫理の尺度や相手のリアクションを想像するような(大人の)段階では、相手の反応を予測し行動することこそを求められるべきです。自分が嫌なことが必ずしも悪いことではないのです。この話は悪意に限らず善意にも適用されて然るべきではないでしょうか。他人の善意が必ず正の方向に働くわけではないことを人は理解すべきです。
もうすぐ僕も大人と呼ばれるような年齢です。人に嫌なことを強要するような大人には(たとえそれが善意であったとしても)なりたくないですね。